ロンシャンはいま寺町谷中に住んでおります。
ある日近所のお寺の前を通りかかったら、坐禅体験の案内に遭遇しました。
学生時代、哲学の時間に簡単な体験をしたことがあるだけで興味はあったのですが、その後機会がなく、いつかやってみたいと思っていました。
幸い開催日が店休日と重なっていたため、参加してきました。
住職から姿勢や足の組み方、視線の落とし方、呼吸の仕方、警策(けいさく:肩を叩く棒)の受け方の説明があり、お経を唱えたあと、いざ、坐禅体験。
体験なので15分という短い時間を二回ほどしました。
それでも、慣れない座り方で足は痛くなるので、それぐらいでちょうど良いです。
住職は、無理をしないで足をくずしても良いですよと何度もおっしゃっていました。あくまで体験なので。
警策を受けるのも住職が決めるのではなく、こちらから合掌して合図をした人のみでした。せっかくなので一回受けてみました。
もちろん平手ではたかれたような衝撃はあるものの、あの音から想像するほどの痛さではありませんでした。
そして、坐禅の真の目的?である無我の境地にはやっぱりたどり着けませんでした。
お寺の中は静まりかえっているものの、外から聞こえてくる音が気になったり、他の体験者が警策を受ける様子や、自分が受けるタイミングを見計らったりと、いろいろと忙しいのです。
それでも、ちょっとした瞬間思い浮かべるのは、私の周りの人達のことでした。住職は「内(自分)を客観視する」とおっしゃっていたので、自分の来し方行く末を思いめぐらそうとしました。
でも、あまり考えられませんでした。
住職は「考えを深めない、発展させない、追わない」ともおっしゃっていたのですが、それに従ったわけでもなく、単純に「考えが深まらない、発展しない、追えない」のでした。
ということは、自分はあまり考えずに行き当たりばったりの人生を送っているのだなと、そのことが新たな発見でした。
本格的に坐禅に取り組みたくなりましたが、まずは日常の隙間時間に取り入れられたらいいなと思います。
そのうちに、悟りが開ける日がくるかもしれません?!